| 3.11以降、実に久しぶりのブログだ。 この9ヶ月の間、未だに3.11に向き合えぬまま、憂国忌当日を迎えてしまった。 そんな折、ネット上で「三島由紀夫 震災」と検索し、目に留まったのが以下の猪瀬直樹のインタビューだ。 このインタビューを読み、恥ずかしながら三島が嫌悪した「日常性とは、終わりなき日常」に安穏としていた自分を痛切に感じざるを得なかった次第である。 ──2001年の9.11が戦後世界史の分岐点になったわけですが、それから10年後の2011年の3.11が日本の戦後史にとっては大きな分岐点になりました。猪瀬さんは3月17日発行のメールマガジンで「三島由紀夫が呪詛した日常性は3月11日14時46分を境に終わった」と書かれていますが。 戦後の日常性を終わらせた「国難」(前編) ~「東日本大震災」は現在の日本に何をもたらしたか~より抜粋
猪瀬直樹インタビュー◆2011年4月15日(金)週刊読書人
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| 三島由紀夫氏没後40年という節目の年に、「豊穣の海」を通して読み返した。 前回読んだのは私の年齢が三島氏の生涯の年齢を超えた5年前、奇しくも三浦重周氏が自決した年であった。 恥ずかしいことだが、今回の読書で初めて、春の雪というこの作品の題名を理解することができた。初読以来30年が過ぎたが「豊穣の海」は私が今までの生涯で一番多く、繰り返し読んできた文学作品である。 にも関わらず私はずっと、春の雪とは清顯と聡子が雪の朝、車に乗って逢い引きをし、初めての接吻を交わしたあの美しくも印象的なシーンから取られたものとばかり思っていた。 この作品にはもう一つ印象的な雪のシーンがある。それは物語の終幕近くで、聡子会いたさに清顯が月修寺に通う場面である。 この場面の前後を時系列に並べると、物語は次のように展開している。年号は大正3年。
お気づきの方もおられようが、2月26日は清顯が月修寺から最後の否を宣告された日である。 病に蝕まれた体にはもう寺に通う体力は残されていない。そして雪。 この雪を三島氏は作品の中でこう描写している。 「この日大和平野には、黄ばんだ芝野に風花が舞ってゐた。春の雪といふにはあまりに淡くて羽虫が飛ぶやうな降りざまであったが……」(単行本351頁)三島氏はここで初めて「春の雪」という言葉を使っている。この日付は偶然であろうか。春の雪には、ここまではっきりと日付がわかる個所は他にはほとんどない。例えば先にあげた雪見のシーンでも、日付は明確にされていない。前後の文章から、この日が正月から飯沼の卒業試験までの間ということがわかるので、おぼろげに、1月か2月であろうということくらいが読み取れるだけである。 命を賭けるべき絶対の美(天皇 聡子)、そして絶対の美からの峻拒。この主題は三島氏が金閣寺や二・二六事件に関する一連の発言の中で繰り返し訴えて来たことに繋がる。
ただし、先にも触れたように、絶対の美、雅からの拒絶、雪、主人公の死、と並べてみると、偶然とは思えない。雪の2月26日に向けて、清顯は聡子に会いたいという執念を抱いて帯解に旅立つが、思いはかなわず19年の生涯を閉じる。それから22年後の同じ日に、国を憂える青年将校、兵士達は昭和維新を志して決起するが、ここでも思いは届かない。 第二巻の奔馬では、この二・二六事件とほぼ同時代を生きる主人公の飯沼勲が、昭和の神風連たらんとする。 小説「春の雪」は、二・二六事件へのオマージュであったというつもりはない。この二つの日付の一致はすでにだれかによって指摘されていることだと思う。 ただ、鈍感な私が最近初めて気が付いたというに過ぎない。 また、多くの読者にとって、題名の春の雪が、雪見の逢瀬からではなくて、帯解に舞った淡雪から取られていることも自明のことだろう。 |
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| ◆二・二六事件決起主要青年将校◆ | |||||
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| ◆安藤輝三◆ 明治38年2月25日東京に生まれる。 大正15年7月陸軍士官学校卒業。歩三勤務中の秩父宮とは非常に親しく、部下からも敬愛され、二・二六事件の判決では首魁として断罪されている。 戒名◆諦観院釈烈輝居士 辞世 一切の 悩は消えて 極楽の夢 尊皇の義軍 敗れて寂し 春の雨 心身の 念をこめて 一向に 大内山に 光さす日を 國體を 護らんとして 逆徒の名 万斛の恨 涙も涸れぬ ああ天は |
◆村中孝次◆ 明治36年10月3日北海道旭川市に生まれる。 大正14年陸軍士官学校卒業。すでに大正時代から農民の窮乏に深く人間的同情を抱いており、教養深い知性が一挙に二・二六事件の首魁としての行動をとらせるに至る。昭和12年8月12日 北一輝らと処刑。 戒名◆自性院孝道義運居士 辞世 ただ祈り いのりつづけて 討たればや すめらみ国の いや栄えよと |
◆野中四郎◆ 明治36年10月27日青森県弘前市に生まれる。 大正13年陸軍士官学校卒業。二・二六事件前の2月19日、遺書を書き残しており、「蹶決趣意書」も野中の草案に村中が筆を加えたものである。昭和11年2月29日陸相官邸の一室で拳銃にて自決。「天壌無窮」と認めた絶筆が残されている。 戒名◆直心院明光義剣居士 辞世 我狂か愚か知らず 一路遂に奔騰するのみ |
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| 本年(2010年)は没後40年ということで、例年になく多くの三島本が出版された。そのすべてを読んだわけではないし、同様に特集記事で賑わった雑誌に関しては、気になるものを二、三本立ち読みしたに過ぎないが、失礼を承知でいえば、つまらない本も多かった。 ただし、生前三島氏と親交のあった方々も年齢を重ねており、歴史の証人としてもう残された時間が少ないということであろうか、そういった方々が文章を残すということの意味は大きかったと思う。 |
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| 三島由紀夫研究会◆メルマガ会報 構成◆Taro |
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| 『最近の保守・民族派論壇と三島由紀夫』 ◆玉川博己◆
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| 最近面白いと思ったのが『AERA』1月24日号に掲載された「ネット右翼に告ぐ‐リアル右翼‐愛国の作法」という記事であった。 内容は外国人参政権問題や尖閣諸島問題などをテーマに近頃高まりを見せるいわゆるネット右翼のあり方について既成の右翼陣営からの批判の紹介である。また従来の民族派運動とは違った流れの保守・右派系市民運動が活発になってきていることも、既成の右翼・民族派に危機意識をもたらせている。 それほど保守・民族派運動が多様化しきている証でもある。確かに近頃のネットを覗くと口に出すこともはばかられる下品低劣な民族排外主義的な言辞が飛び交っている。 かつて60年代までは日本にとっての脅威は共産主義であり左右を分かつ色分けは単純であった。また右翼陣営は殆どが親米反共であった。 従って我々新民族主義派がそれまでの親米反共一本やりの右翼運動と一線を画して「ヤルタポツダム体制打破」、「安保克服・自主防衛体制確立」、「沖縄・北方領土奪還」を主張したことに対して当時の三島由紀夫氏は「天窓が開かれた思い」と言われたのである。 一方で三島由紀夫氏の文化防衛論や反革命宣言の対象は国体を破壊する共産主義であり、戦後の対米従属路線であった。 しかし三島氏の所論には決して民族排外主義的なものはなかった。また三島氏の国防論や国体論はかなり柔軟なものであったと思う。 たとえば三島氏は当時の西ドイツが軍隊をNATOの指揮下に属する連邦軍と政府が統帥権をもつ国境警備隊に分けていたことを参考に、自衛隊を国連に派遣できる部隊と国土防衛に専念する郷土防衛隊に分けることを提唱されていた。 また三島氏の天皇論は文化概念としての天皇論であり、天皇の自衛隊に対する栄誉大権を求めてはいたが、象徴天皇にはとくに反対していなかった。三島氏の憲法改正論の骨子はあくまで9条の改正による自衛隊の国軍化であった。また三島氏は女性天皇についてもありうることと述べておられた。 話をもとに戻すと、最近の世論は保守化してきているが、その分ネット右翼が氾濫し、民族排外主義が横行している気がする。 また女性‐女系‐天皇論をめぐっても保守民族派論壇が男系派と女系派に分裂してお互い誹謗中傷と罵り合いをしているのはみっともない。最近では女系派の立場に立つ小林よしのり氏が新著『ゴーマニズム宣言SPECIAL新天皇論』において男系派の論者(小堀桂一郎、櫻井よし子、八木秀次、大原康男、竹田恒泰、新田均氏の諸氏)をコテンパンにこきおろしている。一方で女系容認派の田中卓氏や高森明勅氏らを擁護している。 これに対してはネット右翼からは「小林よしのりはキチガイだ」とか「反日コリア」と決め付ける過激な言葉が浴びせられている。万世一系の皇統を守ることは大切であり、秋篠宮に悠仁親王がお生まれになったとはいえ、依然皇統の危機は解消されていない。 もし三島由紀夫氏が生きてありせばこの様子を如何に思われるだろうか。 かつて故三浦重周兄が『国体の本義』をテキストに勉強会を主催したことがある。 その発端はそもそも戦後の憲法下わが日本の国体は変革せられたのかという問題意識があった。『国体の本義』では国体の定義を天壌無窮の神勅と八紘一宇の詔に求めているが、それと現在の象徴天皇との整合性を如何にはかってゆくかが議論の核心であった。元来日本の国体論はきわめて柔軟で受容的なものであった。 近隣諸国の日本に対する敵対的行動にはプロテストする必要があるが、単純で下劣な品位を欠く排外主義は大国民のとるべき態度ではない。 大東亜共栄圏の思想も「万邦と諸国民におのおのその所を得さしめる」というのが基本テーゼであったことに思いをいたすべきであろう。この点についてはこれから読者諸氏とじっくり勉強してゆきたいと思っている。 |
| 三島由紀夫研究会◆メルマガ会報 構成◆Taro |
| 昨夜(31日)、午前0時過ぎ、たまたまチャンネルを日本テレビに変えたところ、NNN'ドキュメント11「自殺多発……自衛隊の闇‐沈黙を破った遺族の闘い‐」を見る機会を得た。 自衛隊のみならず、日本の旧軍に対する私の意見を書くにはかなりの時間を労するため、ここでは省くが、如何に急増する自衛官の自殺に対処したら良いのかという問いに私は窮している。 自死に至るに当たって、上官による教育的指導=イジメという構図もまた余りにも短絡的に過ぎるような気がしてならない。 だからと言って、自殺した自衛官が精神的に弱かったとそこへ全てを還元することは私にはできない。 ただ思うのは、何処の世界(組織)にも単なる自身のフラストレーションの捌け口をその立場を利用して、弱者に向ける者はごまんといるということだけは確かなことである。 それは過去の旧軍の戦記を読んでもあちらこちらに散見できる。 哀しい哉、軍人と言えども人間であることに何ら変わりはない。 話はいささか飛ぶかも知れないが、かたや最後にこんな自衛官もいたということをYouTubeからの引用で本稿の結びとしたい。 |
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Videos related to - 国会議事堂前の割腹自衛官、福田首相の外交姿勢批判する抗議文など作成 -
▼Information▼ Time:0.42 min Username:karasu2121 Contribution day:2008年05月13日 Description:国会議事堂(東京都千代田区)に男が侵入し、刃物で腹を刺し自殺を図り未遂になった事-件で、男が福田康夫首相の外交姿勢などを批判する抗議文を作成していたことが13日、警視庁公安部の調べで分かった。 男が右翼団体幹部の名刺を所持し、遺書に「天皇陛下万歳」と書いていたことも判明した。 警視庁は同日、建造物侵入の現行犯で逮捕後に入院治療のため釈放していた埼玉県朝霞市、陸上自衛隊陸士長、鈴木田峻吾容疑者(20)を建造物侵入と銃刀法違反容疑で再逮捕した。 調べによると、鈴木田容疑者は福田政権の外交や経済政策に対する憤りと、若者に奮起を促す内容の抗議文をUSBメモリー(外部記憶媒体)に記録し、東京メトロ国会議事堂駅のコインロッカーに入れていた。 鈴木田容疑者の供述に基づき発見し押収した。 Keywords:自衛隊,自衛官,永田町,国会,肉体言語,陸上自衛隊,胡錦濤,中国,福田 ▼Related blog▼ 統一戦線義勇軍 議長 針谷大輔のブログ Embed: Web Page: |
| 私はこの報道を一昨日(27日)の夕方のテレビで知った(トップ扱いだった)のだが、報道する側の意図が不分明だったため、翌深夜(28日)の時間帯に一通りの情報をネットで集める作業をしていたところ、YouTubeに投稿された件の「ワイド!スクランブル」映像にたどり着いた。 この動画を見た大方の視聴者の疑問はやはりフリップで指摘された旭日旗の今アジア杯におけるその存在の真偽についてであった。 私も同様にその怪しさを薄々感じていた結果が今回のテレ朝の訂正、謝罪である。 かつて東京日日新聞(現毎日新聞)が2人の日本人少尉が南京において中国人を何人斬り殺すことが出来るか競い合っているという捏造報道をしたこと(記事にした当の記者は伝聞によるものと証言)があった。 戦後、この2少尉は戦犯とされ、刑場の露と消えた。 歴史は繰り返されるとよく言われるが、今回のテレ朝の一件は東京日日新聞の捏造報道と何処かしら根を同じくするものだと思わざるを得ないのは私だけであろうか。 |
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Videos related to - 【猿マネ問題】テレ朝川村「健全なナショナリズムの範疇」 -
▼Information▼ Time:14.51 min Username:sengoku800 Contribution day:2011年01月27日 Embed: Web Page: |
| 「人類が最後にかかる、一番重い病気は『希望』という病気である」 私はもう10年以上ある病気に苦しめられている。 それは「ニヒリズム」という名の病気だ。 世間ではそれを「うつ病」と呼ぶらしい。 私に限ったことではなく、潜在的にも戦後民主主義下でこの忌々しい病に罹っている者は少なくないのではなかろうか。 最も手っ取り早い方法でこの病を克服する方法は「自殺」しかあり得ない。 だが、そうした行為に「待った」をかけるのも人間の悲しい性だ。 もはや日本浪漫派はその特効薬ではない。 そうした意味においては三島由紀夫は最後の日本浪漫派だったと言える。 歴史に‐IF‐は愚かしいが、仮に三島が「生きる」という選択肢を選んだのなら、三島由紀夫なりの「ニヒリズム」へのまた新たなる処方箋を書き得たのではないかという思いに私はいま駆られている。 それが私なりに三島に関わってきた中での三島からの啓示なのかどうなのかは分らない。 1970年11月25日、三島由紀夫は森田必勝とともにその人生の幕を降ろした。 そして、それはイコール日本という国家の終焉を意味するのではなく、逆に新生日本への幕開けだと私は信じて疑わない。 |
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Videos related to - 西部邁の「三島由紀夫」論 -
▼西部邁発言要旨▼ 1970年の前年の左翼運動(新宿騒乱)はたいしたことではない。 三島の行為を礼賛している訳ではないが……。 三島の凄さは、自分で死ぬ、敢えて45という若い歳にやることは並大抵のことではない。 生命を最高の価値にすると、状況によれば、何でも許される(恐ろしい)ことになる。 それを三島は分っている。 この世で単に生きること(虚無)など大事に値しない。 いざとなったら死なねばならぬ場面があるというのが日本の武士道であり、騎士道のような外国でも見られる普遍的なものである。 人間が死ぬべき時に死んでみせるという気持ちをずっと持ちながら得るかが大事であり、それを三島は問うたのだ。 ▼Information▼ Time:4.05 min Username:pegiminnh Source:西部邁ゼミナール◆2009年11月21日放送 Description:あれから、対米独立の気概をもたぬまま、ずるずると39年が経過し、日本は中国にまで浸食されるようになり、国家としての死を迎えようとしています。 Keywords:日米安保条約,自衛隊,憲法改正,憲法9条,憲法違反,護憲,三島由紀夫,西部邁,自決,天皇,属国,植民地,特攻隊,神風,神風特別攻撃隊 Embed: Web Page: |
関連お題
| ▼35年前の衝撃‐三島由紀夫神社、慰霊祭にカメラが……「噂には聞いていたが実際にあるとは」‐▼ 文豪・三島由紀夫は25日で没後35年(2005年)を迎えますが、三島を祭った神社が作られていたことが明らかになりました。年に1度開かれる慰霊祭に初めてカメラが入りました。 これまで「三島由紀夫神社」の存在は、たびたび研究者たちの間で噂に上っていました。 しかし、その実態はベールに包まれていました。その神社はなんと、民家の中にあると言うのです。 中略 神社設立の裏には、ある自衛隊幹部の存在がありました。 三島と生前、親交のあった山本舜勝陸将補です。 三島由紀夫は自決に至る3年前から富士山麓で自衛隊とともに軍事訓練に熱中しました。 その際の指導者が山本陸将補でした。山本陸将補は三島からクーデター計画を明かされ、ともに立つことを求められたがこれを拒否。 結局、三島は「楯の会」のみによる単独決起の道を選んだのです。 中略 山本陸将補は「楯の会」幹部とともに慰霊の場所を探しました。そして、軍事訓練の場であった富士山麓に屋内神社をつくり、三島由紀夫のみたまを祭ることとなりました。 こうして23年前(1982年)、山本陸将補の念願であった「三島由紀夫神社」が誕生しました。 室内の神社は、地元の神道系民俗宗教である「富士講」の様式でつくられています。富士山を御神体とし、それに並んで三島由紀夫が「三島由紀夫大人之命」という神道上の神となっています。 かつては、自衛隊員が30人も参列したといいますが、山本陸将補も4年前(2001年)に亡くなり、現在では、三島由紀夫と訓練をともにした自衛隊員の姿はありません。 三島由紀夫研究の権威である佐伯彰一東大名誉教授は、「噂には聞いていたが、実際にあるとは驚いている」とコメントしています。 TBS News i
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3166795.html ▲ The requested URL was not found on this server. ▲
同書は今現在も出版社名を変え、版を重ねて、amazon等で売られているが、初版(1985年)と違うのは件の「三島由紀夫神社」に関する小室とそこを預かる古老(神主?)との対談が削除されている点にある。 今から12年前(1999年)、私はそこに記述されてあった「三島由紀夫神社」の場所である「静岡県富士宮市上井出見返し」へ知人が車を出してくれるというので、ただ「見返し」という地名だけを頼りに神社を探しに行ったことがある。 「見返し」という地を神社の場に選んだのは古老によれば三島があの世からこの世を見返すという意味に由来するという……。 |
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![]() ◆「見返し」周辺地図◆ |
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| 結果は見つからなかった。 その場で一水会に携帯から電話してみたところ、山中、幸いにもつながり、「分りません」との返答だった。 ならば、鈴木邦男ならと思い、再度、試みたが、電波状況が悪く、「はい、鈴木です」と野太い声が聞こえたところで、切れてしまった。 その後、数時間、「見返し」の周辺をそれらしきものはと車を走らせたが、延々と迷路のような樹海が続くばかりであった。 当たり前のことだが、「三島由紀夫」神社(という謎)にたどり着く道は何か他を寄せ付けぬ霊的なものがあるとその時、改めて実感した。 |
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私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。 三島由紀夫「果たし得ない約束」◆昭和45年7月7日「産経新聞」寄稿文
遺書ともいえるこの三島由起夫の文章は最後の文節がとくに重要である。まさに予言的な内容のひとつひとつが現代日本の堕落と無国籍化を象徴的鋭角的に予告している。 拙著三島三部作の筆頭のタイトルを『三島由紀夫「以後」―日本が日本でなくなる日―』(並木書房)とつけたのも戦後の精神的混迷から立ち上がれない祖国への焦燥が心理的に作用したからだ。 昭和45年7月の時点で、戦後25年も経って憲法改正が実現しないことを三島は慨嘆し、三島事件当日の檄文も憲法改正を訴えている。そして事件からも既に40年を閲し、つまり占領基本法を「平和憲法」などと言って押しつけられてから65年を経ても改憲未だならず、政治の無力と荒廃に忸怩たる思いに囚われている読者は多いはずだ。むろん、私もその一人である。 個人的にも「果たしえていない約束」がある。
「楯の会」学生長として三島とともに割腹自決した森田必勝と私は学生運動時代の3年間寝食をともにし、同じ新聞配達の仲間でもあり、また北方領土恢復運動のため納沙布岬に行った経験もある。恵庭の自衛隊にも三島の推薦で体験入隊をしたり数多くの政治集会や勉強会を主催した関係で、私は事件直後に四日市の森田の実家に籠もって彼の日記を整理・抜粋し、学生運動家時代の論文を付け加えて遺稿集(森田必勝 『わが思想と行動』 日新報道 昭和46年)を緊急に編んだ。 この森田遺稿集は事件直後にひろく読まれた。全共闘の活動家らも読んだ。森田は高校時代から社会の矛盾と政治に目覚める一方で友人らと無銭旅行を試みたり、初恋もあり多感で奔放な青年だった。 出版後、歳月の経過とともに新事実が次々と出てきた。このため畏友の直木賞作家・中村彰彦に図って森田の評伝(『烈士と呼ばれる男 森田必勝の物語』 文春文庫)を書いて貰った。没後35年の節目には新しい解説を入れて遺稿集の復刻版もだした。 それからも折に触れて森田のことを綴ってはきたものの、さて名誉が恢復されたのか、「果たしえていない約束」になっているのではないかと案ずる日々が続く。 「日本が日本でなくなる日」を回避させるためにも三島・森田両烈士の精神を継承し、祖国の再建を考える機会にしようと追悼会を組織してきたが、1周忌から「憂国忌」の名を冠し、爾後40周年を迎えた(2010年は11月25日午後5時、九段会館で開催)。記念すべき節目でもあるので関係者と協議し過去の記録を資料とともに集大成した小冊(三島由紀夫研究会編 『憂国忌の四十年』 並木書房)も上梓した。 憂国忌は林房雄、保田與重郎、村松剛、黛敏郎ら数百人の作家、芸術家が支えた。 日々の雑務に追われながらも何十回、いや何百回も2人の自決の意味を考えてきた。またたくまに40年が経って当時の学生運動の仲間の多くが定年となり、よく集まると回想に耽ったりもするが、もうひとりの烈士について最後に書いておきたい。 それは三島由紀夫研究会の事務局長を務めた「重遠社」代表の三浦重周のことである。三浦は新潟に生まれ、北一輝の故郷にも近いせいか早くから政治に目覚め、新聞配達をしながら浪人生活。早稲田入学と同時に早大国防部、日本学生同盟にはせ参じ、三島森田精神の恢復と祖国の精神恢弘のために青春を擲って挺身した。しかし理想の実現には遙か遠く、5年前の憂国忌を終えるや、果たしえない約束を全うできなかった人生を新潟の岸壁で割腹自決して閉じた。 私たちは直ちに「早雪忌」と銘打った追悼会を開催するとともに彼の論文を集めて、2冊の遺稿集(三浦重周 『白骨を秋霜に曝すを怖れず』 『国家の干城、民族の堡塁』 K&Kプレス)を上梓した。三浦重周も文章にすぐれ、政治哲学の視点から日本の政治思想史を論じた多くの論文を書いていた。 この40年は河の小石を飛び越えるほどのしゅゆの時間でしかなかったが、評伝、精神分析、交友録など友人や編集者、作家らが発表し、数百もの三島論が読書界にあふれ出た。秋山駿がいったように三島は「死語も成長する作家」だが、少数の例外をのぞいて感動にうちふるえた評論はすくなかった。 しかし三島・森田精神の恢弘のために奔走し、憂国忌の舞台裏を黙々と支えて散った三浦の遺稿集は、いつ紐解いても涙が迸り出てくるのである。 「日本が日本でなくなる日」はあちこちに出現し、未来は漆黒の闇のように暗い。果たしえない約束を、しかし残された時間にどうやって実現できるか。 ◆記事掲載関連書籍◆
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| 三島由紀夫研究会◆メルマガ会報 月刊誌『正論』11月号掲載 構成◆Taro |
病室では二人きりの時間が多かった。呼吸障害の発作が出ないときは、映画の話は勿論だったが、色々な話をして時間を過ごした。こうした時間の中で、三島由紀夫さんの話が出たこともあった。
三島さんはあの映画に、「何の誇張もなしに『名画』だと思った。なんという必然性の意図が、各シークエンスに張りめぐらされていることだろう」と賛辞を送り、父には、「若いころの鶴田には何ら魅力を感じなかったが、今や飛車角の鶴田のかたわらでは、さしも人気絶頂の高倉健もただのデク人形のように見えるのであった」「彼はなんと『万感こもごも』という表情を完璧に見せることのできる役者になったのだろう」「その撫で肩、私服姿のやや軟派風の肩が、彼をあらゆるニセモノの颯爽さから救っている。そして『愚かさ』というものの、何たる知的な、何たる説得的な、何たるシャープな表現が彼の演技にはみられることか」と、独特の表現で父の演技を高く評価した。 この文章が世に出た頃の私は、まだ小学生で、父の出演する任侠・やくざ映画を観ることは禁じられていた。教育上の配慮は勿論だったが、これならいいだろうと連れて行かれた芸術祭参加作品の戦争映画のラストシーンで、父が切腹して血まみれになったのを見て、本当に父が死んだと思い込んでパニックになった。私は「パパが死んじゃった」と泣き叫んで引き付けを起こし、一緒にいた母が慌てて、「あの血はチョコレートよ、ケチャップなのよ」と言って黙らそうとしても、全く聞く耳を持たなかった。映画は途中でストップしてしまい、それ以降は血の出る映画は全て駄目ということになった。従って「総長賭縛」を観たのは成年に達してからだったが、画面の中に展開する様式美に息を呑み、三島さんが「ハマッタ」のは、これだったんだと私なりに理解できた。 中でも一番印象が深かったのは、雨の墓地のシーンだった。父の扮する渡世人が番傘を差して墓に参ろうとすると、仁義の道を踏み外した舎弟が、雨のそぼ降る中で土下座して許しを請う。父は愛憎半ばする表情で彼を見ながら、謝罪をはねつけ、泣きながら地面に額をすりつける舎弟の上に、差していた番傘をポンと投げかけて、自分は濡れながら遠ざかっていく。
これだけの映画でも、批評家は、「所詮やくざ映画」と、はなから無視したが、彼等が仰天する人物が絶賛したのだから、父の喜びは容易に推察できた。 二人の初対面は「週刊プレイボーイ」が企画した対談だった。この対談では、二人はすっかり意気投合してしまい、三島さんが「昭和維新、いざというときには、オレはやるよ」と言ったのに対し、父は「そのときは電話一本かけてくださいよ。軍刀もって、ぼくも駆けつけるから」と興奮気味に応じている。 この対談の後で、三島さんは、私の父母を自宅に招いて歓待し、それ以降、三島夫妻も世田谷の私たちの家を訪問するようになった。ある時など、まだ日本では六本木の「キャンティ」でしか使っていなかった「パルミット」という椰子の芯の食材を手土産に現れて、「ブランデーに合うんだよ」と気さくな顔を見せたこともあった。 私もご挨拶はしたが、その度に、非常に強いオーラのようなものを感じて、子供心に、傍に寄るのを許される人ではないと思った記憶がある。 父と三島さんは、会うたびに互いの思いが深まるようで、遠目に眺めていると、昔からの友人が思いの丈をぶつけ合っているようにさえ見えた。 「市ヶ谷駐屯地で三島由紀夫自決」というニュースをテレビの速報で知ったのは、私が扁桃腺を腫らして自宅で休んでいる時だった。その瞬間、身体が震え出して止まらなくなった。ついこの間も家に見えた三島さんが自決したことは勿論ショックだったが、それ以上に、京都で仕事中だった父が受ける衝撃を考えるのが恐ろしかった。私はどうしたらいいのか分からないまま京都に電話をした。
私には父の態度が不可解だった。三島さんの壮絶な死にショックを受けた様子がなかったことも、哀悼の意を公にも私的にも口にしなかったことも、何もかもが意外だった。少し時間が経ってから、私は父にそのことを質してみた。 お前だけには言っとくけど、と前置きした父は、「ああいう行為じゃ、何の解決にもならんのだよ。自己満足でしかないんだ」と答えた。 私にはこの答えが不満だった。当時、まだ十四歳だった私には、だってパパは三島さんと、あんなに仲が良かったじゃないの、と思えてならなかった。私の不満気な表情を見た父は、「何の解決にもならんのだよ」とダメを押すように繰り返すと、ひどく投げやりな口調で、「やりなされ、どんどんやりなされ」と突き放した。 父の書斎の書棚で、一番目立つ場所に並んでいた三島さんの著書は、間もなく一番隅の方に追いやられてしまった。 父と三島さんの対談を、今、改めて読み返すと、あのときの父は、三島由紀夫という大きな存在に気圧され、しかも、立命館大学の構内にある、学徒兵を慰霊する「わだつみの像」を学生が壊した事件を肯定する三島さんの論理に虚をつかれて、つい三島さんの敷いた線路の上を走ってしまったように思える。父は、やる時にはやらなければならないという信念を持っていたが、その底には、戦争で死に追いやられていった若者たちに対する限りない哀惜の思いがあった。規律ある軍隊への憧れは強いが、あの時代に戻ってはいけないという恐れを常に持っていた。 それに加えて自殺に対する嫌悪感が強かった。病院で三島さんの話になったとき、父は「自殺しちゃいかんよ、ギブアップだよ」と言った。そして三島さんの名前をあげて、「ああいう死に方は、一見、男らしく見えるだろ。でも違うんだ、生きて戦ってこそ男じゃないか」と、まるで自分と病気との戦いを頭の中に思い描いてでもいるように言い切った。 |
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| カーロン愛弓 『父・鶴田浩二』 新潮社 (2000)◆三島由紀夫 より |
此の春、新宿厚生年金ホール横に、私はサロンを開いた。初日の招待日に、夜半近く野坂昭如さんが友人と駆けつけて下さった。その友人から数日後聞いたのだけれど、まさに駆けつけたの言葉通りであったのだそうである。
十二、三年以前にもなろうか、私は原宿にサロンを造ったことがあるのだけれど、開店の一日前に役所よりストップがかかり店の夢はあえなく潰れ、裁判沙汰になったことがあった。結局勝訴はしたのだけれど、三島婦人に逢った折に「主人が、ガッカリしてたわよ。貴方の店の開店の日に唄うんだって、前の晩に船員帽とシャツとズボン、靴まで枕元に揃えて寝たのよ。翌日、貴方からの中止の電話でとってもしょげてたわ」と言われた。多分、三島さんが作詞、私が作曲した船乗りの唄を唄うつもりだったのであろう。
その後、幾年かを経て私の自叙『紫の履歴書 野坂さんや私は、人間の基本的生き方である食い物を漁ることから始り、住むところを探し、着る物を求めるところが出発点になっていて、それらを手に入れるためには、常に己一人で社会の穢土を浮きつ沈みつ、主人公の役を演じてこなければならなかったのである。だが、三島さんは違っていた。彼には衣食住の基本は、すでに御両親によって与えられていて、彼は生棲生存の基本は一足跳びに跳び越えて、動物が生きるにはむしろ贅沢とも余剰の部分とも思われるイデアの世界からこの世に向けて歩み出せばよかったのである。しかし、その代り常に彼はお客様でなければならなかったのである。 高い芸術を創造する役目の人々には、当然のことながら、不断の客観性が必要なのであるけれど、その客観性の純度やバランスを保つのは仲々難しいものである。中でも作家や批評家等は殊に客観性が必要とされる職種であるが、皆が皆それを保っているかは疑わしい。客観性、理知を水とするならば、主観、情念を火としよう。その理知の水は深山の清水もあれば、ヘドロに汚染されたる如き濁水もある。情念の火を又同じである。青白き嫉妬の炎もあり、黒き俗悪、悪意ある炎もある一方、潔い心の真紅の炎もあるのである。その点では、野坂さんも三島さんも水は清水であり、火は真紅である。只、その違いはバランスの点ではあるまいか。 野坂さんの場合のバランスは、火と水とが互いに同じ分量で真四角に対峙して、時には火が水を馳せ登り、又水が火を飲み込んで追いつめたりはするけれど、あたかも潮の干満の如くに同じ分量の中で行なわれ、又すぐ元に戻っているのである。 しかし三島さんの場合は、まるでバランスが異なっていた。バランスが異なればその形状も異なってくる。紅の炎を中心に、ずらりと水が周りを囲んでいるのである。その水堀は深く広く、火を求めようとする者があれば溺れ死ぬばかりである。しかしその火自身は、なんとか、水の目を逃れて外へ出ようともがくのである。それがボディビルであり、唄であり、その他の奇行とも世間に思われた諸行であった。 五十年近く続けられた三島さんのその闘いは、結局、秋の陣に火の勝利となって幕を閉じたのである。乏しかった火力が突如として爆発し天を焦がし、水はすべて蒸発し、やがてその火は地の果てへ馳せ去ったのである。彼はやっと主人公になれたのである。あの日、私は不謹慎ながら、「三島さん、お目出度う。とうとうやりましたね」としみじみ一人涙したものである。 三島さんの悲劇は、高級官吏の家に生れ、艱難辛苦の世俗の中に身をさらして、この世のもろもろを五感五体で味わうことが出来なかったことにある。一方、野坂さんには、世の荒波を抜き手で泳いできたしたたかさがある。悪意、悪口、裏切りなどに会っても屁の河童である。幸福な人であると私もつくづく思う。 二人の違いから述べたけれど、類似点も沢山ある。微笑ましい程の童心、純粋さ、胸毛、文学以外の活動、旧弊とも受け取られかねぬ程の道徳心、コンプレックス、思いやり、サービス精神、哀しみ、超真面目人間、潔癖性、優しさ、そして最後に決定的類似点は二人共に妹を亡くした為の原罪意識が常に尾を引いていることである。故に二人共、愛妻家であり恐妻家でもある。又私にはいつも二人は理想的な兄を感じさせてくれる。知的圧迫感、情の細やかさ、全く申し分のない兄である。まだまだ二人の共通点は色々あるが、それを述べるには紙数がなく残念である。 今夜も野坂さんがふらりと庭下駄にヨレヨレのレインコート姿で当店に来て一杯飲んで帰ってゆく。送られるのは嫌だという後ろ姿を無理に送って、深夜の春の中に消えて行く野坂さんの孤独な背を見つめる。いつか三島さんの背を見ながら感じた牧水の歌をふと又思い出した。 白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ |
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| 『筑摩現代文学体系・92』 筑摩書房 (1976)◆野坂さん、三島さん、白鳥 より |















by cocococo
三島由紀夫こぼれ話◆三島由紀…